(原文)
てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ぢんほりおきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためともみざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人は、念仏申給へや、三三年のくやう也。
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(現代文的に変換)
天正十八年二月十八日に、
小田原への御陣 堀尾金助と申す、十八に
なりたる子をたたせてより、又
ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、
今 この橋をかけるなり、
母の身には落涙ともなり、
即身成仏したまへ、
逸岩世俊(金助戒名)と、
後の世のまた後まで、
この書き付けを見る人は、念仏申したまへや、
三十三年の供養なり。
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(名古屋市のホームページより)
1590年、18歳の堀尾金助は小田原の戦いに出発しましたが、病に倒れ帰らぬ人となりました。裁断橋まで出征を見送った母は、翌年、供養のために裁断橋を架け替えました。その後、33回忌にも再度架け替えを行い、擬宝珠に刻まれたわが子に対する母の想いが人々に語り継がれました。